OSSがソフトウェアの世界の根幹にあることは誰も異論はない。ではなぜOSSは、ソフトウェアの世界でここまで絶対的なものとなることが出来たのか。理由について私なりに考えてみた。
まず、もの一般には「未完成のもの」と「完成されたもの」がある。
国という社会が栄えるには子供がたくさん生まれ、彼らが育っていくことが重要である。同様に、OSS社会が活発化していくためには、未完成のものが生まれ、未完成のものがいかに完成していくかが重要となる。
私は、ある程度完成してしまったOSS(Linuxカーネル、MySQL、Hadoop etc)と、リリース前かあるいは直後くらいのこれからの未完成なOSSは、OSS議論においては分けて考えるべきだと思う。
前者については「どこでも使われるソフトウェアのナレッジが共有されるため転職しやすくなり、プログラマの給与改善に役立つ」という意味のオープンであって、開発そのものがオープンであることの意味は、権力争いがオープンに出来ること以外にはない。それは政治みたいなもので、国会議員になれば国という社会に意見を言えるようになるわけであり、有名ソフトウェアの世界での共有知に意見出来るようになることは同様に価値がある。これは、クローズドソフトウェアに毛が生えたようなものだ。なぜならば、独占することが正義だからだ。
一般に、「大企業がOSS戦略を強化」と言った場合は、良くてこの前者へ貢献するか、大抵はフリーライドを前提とした作業員を増やすくらいの意味である。しかし、私は、これに関しては特段フィードバックをせずにフリーライドでも別にいいと思っている。その代わり「使っている」ということは表明すべきだ。それ自体が多大な貢献となる。なぜならば、前者のOSSにとっては、業界で広く使われることが生命線だからだ。それはどこまでも広い方がいい。
しかし、先ほど述べたように、OSS社会が栄えるためには、後者が育つ風土があることが重要となる。それではなぜ人は、未完成のOSSを使ってみようと思うのか、何か貢献したいと思うのか。これは人間の本質に基づくと私は考える。
(続く)