【25年目の麻布中学合格体験記】25年前に私が中学受験をはじめてしまったわけ - テストステ論
の続き。
前回のあらすじ:ふつうの家庭に生まれた私は、もともと中学受験などする気はなかったが、たまたま地元の一流塾に合格してしまったがために、中学受験を始めることになったのであった。
こうしてまんまと一流塾に入塾した私は有頂天であり、その塾に落ちたやつらに吹聴して回った。なんせ私は日能研がE組で、そのことは必死に隠していたから、ここぞとばかりに、日能研の試験で私より上位だったのに落ちたやつらをバカにして回った。おそらく他のやつらは全員、おれが日能研でトップクラスに受かっていると思っていたに違いない。しかし現実は紛れもなくE組なのだ。
下から8番で入塾した私の実力は、実際には下から8番どころではなく、下からさらに下1000番くらいの実力で、授業についていくことすら不可能だった。すべてが何もわからず、最前列の上位5人くらいが授業で手を挙げて回答していくのを見て、闘争心すら失せた。日能研にいったやつらは、こんなことを理解しているのかと思い、自分が計算ドリルが速いのは、あいつらが計算ドリルに力を入れていないからではないかという疑いを持ち始めた。彼らに少しだけ尊敬を覚えた瞬間であった。
塾は、予習シリーズという四谷大塚のテキストを使っていた。もちろん、理科や社会などの知識をつけていくということもしたが、家での学習でもっとも記憶に残ってるのは、というかそれしか記憶にないほど強烈だったのは、夏目漱石の「吾輩は猫である」を読みながら、その中にある知らない単語を片っ端から国語辞書で調べて蛍光ペンで引くという勉強だった。文豪が辞書を食べて言葉を覚えたなどという比喩があるが、それに近い修業だった。
これに同意した記憶はないが、気づいた時には隣には鬼(母親)がいた。食卓に座り、吾輩は猫であるを読みながら、単語を見る度に「これどういう意味?」と聞かれて、当然答えられないから、また国語辞書を見ると蛍光ペンが引いてあって、「なぜ覚えられないんだ」と罵倒され、泣きながらやっていたのを覚えている。いや正確にいうと、それしか覚えていない。これをやるか、中学受験を辞めるかという二択を迫られ、今思うとただの児童虐待であった。
分厚い小説は、一日に1ページも進まないこともあった。結局、一冊を読み終わることはなく、この修業は終わったわけだが、その頃には国語辞書は真っ黄色になっていた。
正直にいうと、中学受験における勉強では、これしか記憶がない。他には勉強をしていなかったのではないかと思うほどこの修業の記憶が強烈で、他の記憶がすべて消し飛んだ。
この修業のせいで、私は日本語アレルギーとなり、最近になって三島由紀夫を読み始めるまでは日本の純文学は読めなかった。
夏目漱石「私のことは嫌いになっても、日本語のことは嫌いにならないでください!」
私「いや無理でしょ。お前鬼か?」
この勉強法の是非について考えたい。
現実的にいうと、あの段階でとろとろとふつうに勉強していたのでは、追いつくのが遅れて麻布がどうとかいうレベルにはたどり着かなかった可能性があるし、夏目漱石を片手に国語辞書を引くと行為は、言葉を学ぶということはもちろんだが、それ以前の問題として「文章を読む」ということはすべての学習の基礎だから、その基礎体力を半ば強引にでも身につける必要があるという判断だったのだろうと思う。また、机の前で勉強するということも学べた。
荒療治ではあったが、人生で一番価値のあった勉強だと思う。実際にそのあとは成績は単調に伸びた。真似をせよとは言わないけど、ただ楽しくわいわい勉強をしているだけでは猛烈な向上はあり得ないと思う。
私が飲んでる脳サプリ(ホスファチジルセリン)です。中学受験のお供にどうぞ。