退職します。拝承

12/19、日立製作所横浜研究所の中に衝撃が走った。

事実。1/15を以って、私は日立製作所を退職する。

(1) 辞めた理由 = 未来のため

「日立を辞めるのはもったいない」と何回も言われた。確かに、日立で働くことにいくらかの意味はある、そういう企業ではある。ではなぜ辞めるのであろうか?一言でいうと、自分の、技術者としての将来のためである。私にとって、特にこの半年は、自分の未来が失われている感覚しかなかった。だから、辞めようと思った。

転職活動の途中、私は転職エージェントにこう言われた。「あなたはまだ若いし才能があるのだから、リスクを恐れずに挑戦した方がいい。そうすることが、将来のリスクをminimizeすることになる。はっきりいって、日立のような日本型の大企業でのキャリアは、外からは評価しようがない。むしろ、年数が経つにつれて、その中に最適化された人間だと思われる可能性が高い」。当時、転職するか半々くらいのところで迷いがあった私は、この言葉に納得した。私を煽る理由があるようには思えなかったし、率直なコメントなのだと思う。

日立は、半官半民などと揶揄されることがある。実態は、その通りである。私は入社前から「君はいつか辞める。日立には合わない」と数人から言われていた(その一人は息子が日立を辞め外資系で働いている)し、やはり無理だった。自分の能力を出せず、非常に苦しんでいた。社会人としてではなく、技術者としてこんなことで良いのかと苦しんでいた。好き勝手働ける環境など存在し得ないことは当たり前だが、働きづらい環境の中で、能力の一割も発揮出来ていないと感じていたし、このままでは市場価値を失って転職が不可能になると思っていた。これが最大のリスクであることは言うまでもない。日立は潰れない、そう言う人はいる。日立自体が消えることはないにしても人が切られることはある。仮に切られずに済んだとしても、40を境に引退勧告を受け続け、辛い会社人生をただ定年まで耐えるだけが相場だ。だから、転職市場でも価値があり、いつでも飛び出せる人間であり続けなければいけない。それは日立にいても他の会社にいても。

だから、どの道転職するのであれば、技術的にMAX挑戦しようという方針だった。この要件を満たすために、本当に技術レベルの高い企業しか受けなかった。一社は「ぜひ受けて欲しい」と言われていたのにも関わらず書類でばっさり切られ、もう一社に内定した。落ちたら、日立で2年ほど留年してまた転職活動をしようという方針であった。その時には日本ではなく海外に挑戦しようと思っていた。私は成果の公開も積極的に行っているし、グーグルやフェイスブックと言わずとも、海外でも何らかのオポを得ることはたぶん出来るだろうと考えていた。

なぜ日立は働きづらいのか、その理由はいくつも挙げることが出来るが、年功序列が根本にあることは疑いようがない。ここらへんは、以前にも紹介した城繁幸さんの本( 【感想】若者はなぜ3年で辞めるのか )に大体書かれている(そして実際に若者が3年で辞めたことがそれを強力に裏付けている)。研究所特有の事情としては、最近は(到底納得いかない理由から)予算の大幅削減がなされただけでなく、情報流出を過度に恐れるために情報インフラが極端に制限された(例えば、Githubにアクセス出来ないと言ってもイマドキのエンジニアは誰も信じないだろう)。間接部門も、ただ存在するだけで、実際の仕事はなぜか研究所にオフロードされているというのが実態である。辛い競争を勝ち抜いてきたから失いたくないのだろうことは分かるが、幹部も含めマネージャ層は全員、保身しか考えない。このような抑圧された環境のおかげで、研究が事実上不可能になっていった。本当にレベルの高い研究と言えるものは、少なくとも私は知らない。研究所にいながら研究をしなければ、市場価値を失うのは当たり前であろう?私は、少なくとも横浜研究所には未来はないと思う。中央研究所などは知らない。

(2) 日立製作所の良いところ

季節は就活の季節である。ここまで、日立の暗い面についてばかり話してしまったが、では日立の研究所に就職する価値はないのか。そんなことはない。

研究所には超絶技術者がいる

日立の研究所には、表に出てこない超絶技術者がいる。彼らに出会うために就職することはアリである。私も、麻布高校、京都大学と、優秀な人間を見てきたつもりだが、日立の研究所には「おっ」と思うような人間がほんの一握りだが存在し、彼は往々にして表舞台には出てこない。

OBの仙石氏ははこう言っている。

http://www.gcd.org/blog/2006/12/108/

しかし、優秀な技術者の大半が、大企業の奥底で眠っているのだとしたら…? そして日本のソフトウェア産業を振興させたいと思うのなら…? それなら有効な振興策は一つしかない。 唯一にして最も効果的な究極の振興策、それは…

大企業の一つをつぶして、死蔵していた優秀な人材を放出させることである。

過激な発言であるが、私も、日立に眠っている超絶技術者が外の世界に出て行くことが本当のInspire the Nextなのではないかと思わないでもない。最近は転職もカジュアルに出来るようになってきており、優秀な技術者が転職する例も少なくない(Simeji開発者のadamrockerさんなどもOBの一人である。http://www.adamrocker.com/blog/316/changed-my-job-and-moved-to-san-francisco.html )が、まだまだ足りない。私の転職が、彼らの目を覚まさせ(自分の価値を自覚させ)、オポの加速に繋がらんことを願う。優秀でないもののことは知らない。

提言。日立の優秀な技術者たちよ。価値を失う前に転職せよ。社会はあなた方を求めている。

様々な経験をさせてもらえる

日立は、社員の教育には金を使う企業である。社内の研修に参加したいといえばほぼ例外なく参加が許される。また、1か月間、営業実習という形で九州支社の方に研修に行くことも出来た。研究所と営業というのは全く違う層にある職種なので、良い機会が出来たと思う。

他にも、これは研究所限定だと思うが、2回の海外出張にも行かせていただいた(サンノゼ、エジンバラ)。発表もないのに海外出張に行かせてもらえるのは、ふつうの企業では考えられないと思う。それまでも海外に行ったことはあったが、非常に刺激的な経験になったと思う。

ただし、予算は削減されているし、教育に関してももっと前の世代から見ると明らかに削減されているため、今後どうなるかは知らないし、知ったことではない。

楽しく仕事出来ることもある

私はこれまで、先行研と先端基盤研というのをやらせていただいた。どちらも比較的先物の話であり、辛さは比較的少なかった。

しかしこれは仕事依存である。例えば、新婚まもなく出向に出されたケースもある。依頼研というのは事業部の製品化に直接関わる仕事であり、基本的にその内容は製品に特化しているし、自由度は少ない(研究所の人間は高級外注と揶揄されている面がある)。部署の風土も、緩めのところもあるし、ガチガチのところもある。最初のうちは仕事を自分で決めることはほぼ不可能なので、これらはほとんど運次第と言えるが、私は拝承生活を比較的楽しめた方なのではないかと思う。最近では、IEEEの国際学会で発表させてもらったりもしたりもした。ただし、研究所の予算はどんどん削減されており、そのために製品化のための依頼研が多くなっている。従って、楽しく仕事が出来る確率はこれからもどんどん低くなっていくだろうと予測する。予算が減らされる -> 大した研究が出来なくなる -> 研究所役立たない -> loop という悪循環が引き起こされているのが現状である。

社外でちやほやされる。転職で有利

日立製作所の研究所というのはなかなかのネームバリューがあるようである。外の世界には、「日立の研究所の若手は優秀」という認識があるのではないかとすら思った。ただし、ちやほやはされるものの、いざ書類を出してみたら即切りされるということもあるので過信はならない。やはり、自らの専門性を高めるしかない。合コンでちやほやとかは知らない。

まとめ

社会人の入り口として日立製作所の研究を選ぶことは、(結構狭き門ではあったりするが)悪くない選択肢だと思う。合わないと思ったら私のように2年で3年で辞めてしまえばよいのである。日立の人間がしっかり教育されているということは社外にも知れ渡っていることだから、若いうちであれば確実に売れると思う(学歴も高いことが多いので、この効果も少しは残っていたりする)。職業的博士課程と思えば、非常に旨味のあるオポであろう。

(3) OSS活動での不遇

私は、入社当時、Linux Technology Center(LTC)への配属を希望していた。しかしこれは終ぞ叶わなかった。入社前から、私のLTC配属は「おかしなやつが来るらしい」という形で中の人にも広がっていたようであるが、蓋を開けてみたら、私は違う部署(ストレージ部)に配属されていた。育成のためにまずはストレージ部に配属したという話ではあったが、全く意味が分からなかった。結局、もう一人の京大卒がLTCには配属され、私は競争に負けたことで失意した。発表を受けた時は、目の前が真っ暗になった。

それでも私はLinuxへの情熱を絶やさず、writeboostを開発した。しかしこれによって私はストレージ部から追放され、ビッグデータ部に転属となった。ストレージカーネルという、業務と近いことを勝手にOSS化したことへの報復人事であると感じた。もちろん、DCDは既知の技術であり、writeboostはこれをベースとしているのだと言っても理解されることは一切なかった。技術的にも、社外の活動によって拡張がなされていることは明白である。というか、そもそも理解する気もなく、果ては「あらゆるOSS活動を禁止する」とまで言ってきた。社内ルールに即せず勝手にOSS化する人間とみなされたため、OSS活動を行うLTCへの配属可能性も完全に消えた。

結局、writeboostを筆頭とするOSSの活動が大きく評価されてオポに繋がったことは私からのせめてもの仕返しである。日立は、日立のOSS活動を大きくアピールするための武器を自ら捨てたことになる。せいぜいトレースまわりくらいしか大きな成果がない中、ストレージ領域でのアピールは、日立のLinux Kernelでのプレゼンス向上には聖剣と言っても過言ではないほどの宝であったが、マネージャの保身によってこれを捨てたことになる。ついでに期待の若手人財も失ったのだから、完全に救いようがない。

とはいえ、これは私が辞めた理由の本質ではない。本質は、リスクを最小化するための挑戦にある。したがって、いずれにしろ辞めていたものと思う。また、私の所属していた部署は事業が縮小し、辛い仕事ばかりになっているようなので、そういう意味では栄転などと言われたこともあったが、私にはそうは思えなかった。

一点だけ、

後悔: 一度でいいから、名刺にLTCと書きたかった。

(4) 最後に

日立製作所に入所して3年足らずの短い日々であったが、本当に色々なことを経験させてもらったと思うので、この点は感謝したい。

日立製作所の技術者全員に言いたいことは、転職するしないに関わらず、まずは外を見て欲しいということ。外を直視して、自分の価値(往々にして無価値さ)を知って欲しい。それは勉強会でもいいし、実際に転職活動をお試しでしてみてもいい。転職活動自体、自分のキャリアというものに対して良く考えるきっかけになる。エージェントと会話することはもちろん、さまざまな企業を見てみることは自分の知見を広げるきっかけになる。例えば、10人やそこらしかいないベンチャー企業を見学したこともあったし、外の企業のエンジニアと会って話したこともあった。私は新卒就職活動も非常に学びがあったと思っているが、同様に中途転職活動にも学びがあった。

私の退職が所内に広まってから、「日立を出ることに恐れはないのか」ということを質問された。では逆に聞きたい。「日立にいることに恐れはないのか」と。賢い人間であれば、少し考えれば分かることである。一方で他の人からは「私も辞めたいと思っている。しかし臆病で踏み出せずにいる。あなたの勇敢さに敬服する」ということも言われた。オポという概念の広まりに見るように、私の言動や行動は自然と周りに影響を与えてしまう。生来のカリスマである私の退職が、所内全体に広まり、このように「気づいている人間」の挑戦を促すようになればと思う。OSSと同じでJust do it、まずは自分というプロダクトを売りに出してみればいい。自分の価値を決めるのは周りであって自分ではない。だから恐れずにまずは挑戦してみればいいと思うのである。特に若手はfail fast、手の打ちようがあるうちに自分が無価値であることに早々に気づくことが出来るのだから。

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