子供に毒チンを打つ=毒親
「毒親」という言葉が流行っているようだ。これは、明確な定義はないもののおおむね「子供にとって毒になる親」のことを指すようだ。
自分で自分のことを毒親ですと名乗る人間はいないだろうから、子供が自分の親を指して毒親と呼ぶのだろうが、またいつもの他責思考だろう。 都会に生まれていたら大学に行けていたとかも同様だ。(ちなみにMARCHは大学ではないから)
都会に生まれていれば大学に行けていた?何言ってんだカスがこれでは毒親という言葉があまりに無意味だから、テストステ論では新しい定義を与えたい。 すなわち、「子供にmRNAコロナワクチン(毒チン)を打った親は毒親」である。
境界知能人間は毒親になる
では、どのような人間が毒親になりうるだろうか。 おれは、ワクチンを打つ人間の心理についてこれまで分析してきたが、 自分ではワクチンを打たないのに子供に打ってたら狂人なのでこれは除外すると、自分が打ってることは条件になりそうだ。
その上で、どのような人間であれば子供にワクチンを打つだろうかと考えると、おれは、境界知能人間であれば子供にワクチンを打つと思う。 これは、子供にワクチンを打った人間が境界知能だと言ってるわけではないから、馬鹿のみなさんはいちいち発狂しないように。
なぜ、境界知能人間は子供にワクチンを打つといえるのか。境界知能について扱った記事によると境界知能人間には以下のような特徴がある。
- マルチタスクが苦手
- 分からないことを分かったふりする
- 物事を理解する能力が低い
- 深く考えることが苦痛
エルキュール・ポワロになったつもりで、このような特徴を持つ境界知能人間Aを思い浮かべよう。Aはあくまでも想像上の人物である。ポワロは推理にこのような手法を用いる。
(境界知能人間Aの物語)
Aは2020年、mRNAという新技術が応用されたワクチンが開発されることを知った。彼には、ワクチンが体内で留まるために利用されているLNPの問題は想像も出来なかったし、そのワクチンによって抗体を作ることが免疫にとってどういう悪影響を与えるかも理解出来なかった。彼はそれ以上考えることをやめ、コロナワクチンについての嘘の宣伝文句である「打ったあと抗体を作ったら体内からは消える」「打ったら集団免疫が得られる」を信じて、SNSなどで絶賛した。
Aは幼少期より、知能が低いが故に劣等感を持っており、また、自己肯定感は低かった。Aは決して自己主張をせず、親や先生に従順に従った。コロナワクチンについて、国の方針に対して反抗するハンワクと呼ばれる連中の存在は彼にとって許しがたいものであり、この点からも彼にはコロナワクチンを打つ以外の選択肢がなかった。
Aは2021年夏に1回目の接種を受けた。この時、強い副作用が出て発熱したが、「こんなに強い副作用があるならば効果があるに違いない。この様子だと2回目はもっと強い副作用が出るかと不安だが、これで集団免疫が得られるならば我慢しよう」と思い、疑うことはしなかった。
しかしご存知のとおり、集団免疫は得られなかった。Aはその後、国に騙されるがまま3回目も接種したが、ここで完全にファされた。体調は悪くなり、頭は冴えなくなり、仕事にも差し支えるようになった。
小児へのワクチン接種開始された時、多くのまともな親は疑い目を持った。しかしAは、免ファと脳ファを受けた上、仕事にも忙殺されていた。その中で、子供にワクチンすることの是非を考えることはAにとっては難しいことであり、また苦痛なことでもあった。そこで、その苦痛から逃れるために、Aは自身の子供にワクチンを打った。
以上より、別のXやYが境界知能であったとした場合でも、やはり子供にワクチンを打つことがわかった。
植松大聖の意志を継ぐものたち
ここまで考えて、彼らを毒親と呼ぶのは少し勿体ないことに気づく。なぜならば、毒親という言葉は、子供に毒を打ったことしか含まないからだ。
むしろ「聖親」と呼ぶ方がふさわしい。聖というのは、植松大聖の聖である。 植松大聖は2016年に知的障害者を抹殺した。ここには、知的障害者は生きるに値しないという思想があった。
植松大聖が知的障害者を生きる価値なしとしたのは、彼らが社会の役に立たないためであるが、この範囲はあの事件から8年経ってより広がったように思う。 技術の進歩によって頭の悪い人間がもともと担当していた仕事は大幅に減った。 その結果、境界知能人間は現代においては、社会に役に立たず、大聖の理論によると屠殺すべき対象になった。
そして、境界知能の親は境界知能の子供に毒チンを打ったのだから、これは大聖の意志を継いでいることになる。これが、おれが彼らを聖親と呼ぼうとする理由である。