背景
ラグビーのイギリス代表が日本で開催されたラグビーのワールドカップ2019の決勝で南アに惨敗し、 銀メダルを首からかけることを拒否しました。
これに対して、彼らの母国イギリスでも、 ツイッターをはじめメディアでも「潔く負けを認めるべき」「癇癪を起こした子供のようだ」 という批判が巻き起こっています。
これに対してテストステ論の考えを述べます。
明らかな批判
彼らにとって銀メダルは敗北であり、それを受け入れられないために メダルを拒否をしたという理由は明らかです。 柔道の篠原のように審判の判定ミスによって負けたというわけではなく、 単に実力で負けてしまったわけですが、 それを認めたくなかったからメダルを拒否しました。
銀メダル以下のチームを結果的に侮辱している
この行為が悪いのは、 銀メダルより結果が悪いチームに対して失礼だということ。 例えば、日本チームにとって銀メダルは大勝利です。
例えば、早稲田を第一志望にしていた子がいるとします。 早稲田も立派な大学です。 もう一人の子が、東大が第一志望だったけど、東大に落ちてしまい、 早慶の子の見ているところで、むしゃくしゃして早稲田の合格通知を 破り捨てたとします。 この行為はどうでしょうか?明らかに、早稲田を第一志望にしていた 人を侮辱しています。
イギリスチームに、その意図はなかったとは思いますが、 結果としてそうなってしまったのは残念です。
敗北を認めないことは許されないのか?
上の批判は妥当として、もう1つの「スポーツマンシップに則るならば、潔く負けを認めるべきだ」 というのはどうでしょうか。
結論を先に述べますが、 私は、特に何の努力もしてこなかった人はこの考え方に至るのだと思います。
金丸祐三引退しろ事件
陸上に金丸祐三という選手がいます。この選手は高校の時にものすごく輝いていて、 当然400メートルの日本記録を更新すると思われていたのですが、 残念ながらうまく行きませんでした。社会人になってから競技を続けて、 更新出来た記録はたったの0.5秒程度です。 400メートル走って0.5秒です。 1987年生まれですので、もう30歳を超えており、日本の中でも勝てなくなってきました。 ただ、それまでは日本選手権を11連覇していました。
先日、金丸祐三選手のツイッターに対して心無いファンから、 「ピークを過ぎて記録の更新はありえないんだから、だらだら競技を続けてないでさっさと引退しろ」 という旨のリプライがされました。
なぜ、彼がこのようなリプライをしてしまうのか。理由は2つあります。
1つは、自分に何も才能がなく、努力も出来ないから、金丸選手のようなエリートに対して 過度の期待をしてしまうから。それが裏切られたという思いにつながります。
もう1つは、中学時代から期待されて、高校ではトップに輝き(今も高校記録を持っています)、 その後日本記録の更新は当然だと思われながら競技を続け、それでなお記録更新が出来なかった 気持ちが理解出来ないからです。なぜならば、そこまで深く努力をしたことがないからです。
これは、努力を笑う人間も同様です。 彼らは何百時間も何千時間も同じことに打ち込むということをしたことがありません。 TOEICのスコアを一週間で上げる!とか、そういう非本質的な本を買うのも彼らのような人種(ゴミ人間)です。 たかだか料理レシピを見てそのとおりに作業しているだけなのに主婦は大変だと威張り散らす人間も同じです。
イギリス代表は勝つために努力してきた
この努力というのをキーワードにイギリス代表の問題について考えましょう。
彼らはこの舞台で優勝するために、死ぬほどの努力をしてきたということは疑いようがないです。 その結果が銀メダルで、それを認めてしまっては、本当は報われなかった努力を報われたと嘘をつくことになるから メダルを拒否したのだと思います。 彼らにとっては敗北を認めることが何よりも許しがたいことなのです。
しかし、ロクに努力出来ないゴミ人間たちは、 これに対して怒るわけです。 真に努力した結果敗北するということがどういうことなのか理解出来ないから。
もう1つはもちろん、自分にはない才能を持った人間が負けを認める姿を見たいというのもあるでしょう。 彼らは常に負け続けて、その度に負けを受け入れざるをえなかったため、 代表の人間たちが負けを受け入れてくれないと、心地が悪いのです。 この、自分の常識と違うことは心地悪いというのは以前に話しました。
人は自分のものさしでしか物事を評価出来ない子供の教育に悪いからとかスポーツマンシップがどうのというのは詭弁です。
敗北を認めることはどれほど価値があるのか?
イギリス代表の行為に対する批判が、ゴミ人間によるものだから無価値だ という話をしました。ゴミ人間の主張はゴミバイアスがかかり、中立ではなくなるからです。
では、より本質的に考えて、敗北を認めることは意味があるのでしょうか?
私は、トータルで見ると、敗北を決して認めないことの方が 次につながりやすいと考えます。 これは単に、次は優勝するぞというモチベーションになるからです。 メダル拒否をすることで批判を受けることは当然予想されることです。 しかし、その批判を受けてでも自分の意志を貫くということは 必ず次に繋がります。
私も、受け入れたくないテスト用紙を破り捨てたことがあります。 今でも、ここで苦笑いして済ますべきだったとは思ってません。 もしそうしていたらおわり。麻布中学には落ちていたでしょう。
【25年目の麻布中学合格体験記】95点はその場で破り捨てる囲碁では、勝負が終わったあとに検討をするのがマナーなのですが、 負けたことが悔しすぎて、検討を拒否する棋士もいます。
絶対に負けを認めないという精神性は、勝負事には大切だと思います。 これを完全否定する人は、ロクに勝負していないということです。
よく、オリンピック選手に対してオリンピックが終わると、 「次の4年後はもっと良いメダルを狙いますか」と質問するメディアがいますが、 あれもゴミ人間です。 オリンピックに出るために、メダルをとるためにどれだけ努力してきたか 想像も出来ないから、そんな軽々しいことが言えるのです。 その質問に対して質問されたオリンピックアスリートは決まって 「今は次のことは考えれないからゆっくり休みたい」 というわけですが。
それ以前の過程を抜きにして、オリンピックに向けたピーキングだけを考えても とてつもなく過酷なものだということは、これは少しでも減量したことがあれば わかると思いますが、ゴミ人間は常に、1週間で痩せる魔法のサプリを追い求め、 3日間だけ何も食わず、水分が2キロ抜けたことに喜ぶのです。
次に、スポーツマンシップに則るならば、敗北を認めるべきという主張ですが、 勝者に対してスポーツマンシップを要求するのはわかるとして、 なぜ敗者に対してもスポーツマンシップを要求するのでしょうか? 勝者が敗者に対して中指を突き立てたりすることは無条件で批難されるべきと思いますが、 敗者に負けを受け入れろというのは酷すぎます。 そもそも、負けを受け入れるかどうかは本人の問題ですし、外野がとやかくいうべきではないです。
最後に、見ている子供たちへの教育に悪いという批判ですが、これも微妙です。 なぜならば、ラグビー選手の本業は子供への教育ではないからです。本業はあくまでも 試合に勝つことであって、子供の教育のために努力してきたわけではありません。 それに、絶対に負けを認めない姿勢にも見習う価値があるため、負けを潔く受け入れる 姿を見せることのみが良いとは言い切れません。
以上より、テストステ論では、イギリス代表のメダル拒否に対して賛同します。