どうやって育てられたら、生まれて良かったなどと思えるようになるのだろうか。 よっぽど恵まれていたか、よっぽど頭が悪いかのどちらかだろう。
おれは、自分の意思で楽に死ねるならば、早く死にたいとは常に思ってるけど、 自分が生まれて良かったと思ったことは一度もない。
おれは、生まれた時から負債だった。
おれは、親に勝手に生まれさせられて、 産んでしまった義務を果たすためだけに、育てられた。
親にとって、 少なくとも母親にとっておれは、負債でしかなかった。 経済的に落ちこぼれて犯罪者にならないように、 あるいは一生親のすねかじりにならないようにといった 負の理由で仕方がなく育てられたと認識している。
おれが生まれた時代というのは、 子供がいない家庭というのは稀で、 周りは大抵は2人は子供がいるし、3人以上いる という家庭もそう珍しくはなかった。
一人っ子というと、何かしら意図を感じたくらいだ。 養育費を集中させたいとか、一人目を産んだあとに不仲になり、 二人目を作らなかったとか。そういう理由が透けてみえるくらいだった。 そんな時代だった。
今は、二人いるときっと夫婦仲がいいんだろう、と思うくらいだろう。 ずいぶんと時代は変わった。
そんな時代だから、うちも平均的に二人の両親から二人の息子が生まれた。
二人の息子は両方とも大学に行き、自立した。
この時、おれの母親がふとした時に言ったことをおれは一生忘れない。
「二人ともなんとか育って、ちゃんと自立して良かったわ。 もしニートになって家にずっといるようなことになったら大変だった」
ようやく育児が終わって荷が降りたという流れの中での一言だ。
わかるだろうか。
おれには「はっきり」とわかった。
この母親は、子供が自立し、幸せになることなど真に望んでいなかったのだ。 そうではなく、産んでしまったことで生じた義務をただ果たしただけなのだ。
まるで、子供を産むことで借金をして、借金を返し終えたくらいの感覚だったのだ。 それはまるで仕事だった。
うちには、お金がなかった。 これはおれが中学受験をして、私立の中学にも行き、 大学は下宿して京大なんかに行ったからだ。 麻布中学の学費は年100万くらい、京大時代は学費と生活費で年200万くらいはかかっていた。 共働きの上にローンを組んで、どうにかお金を工面していたようだ。
だからか、おれの母親はいつも、お金がないお金がないと言っていた。 それ自体は事実だし、ぼやくのはしょうがないことだ。 骨折してるのに痛いとうめくことすら許されなかったら人権がない。
しかしその上で、「もしおれが私立の中学なんかに行かなければ 高級バッグが買えたのに」とか、そういうことも言っていた。
これがどういうことだかわかるだろうか。
おれには「はっきり」とわかった。
おれの母親は、 高級バックを買うことと、おれが私立の中学に行き学ぶことを同列に扱ったのだ。
つまりそこには、おれが私立の中学に行き、 人生を豊かにし、幸せになることへの望みなどはなかった。 いや、あったかも知れないが、少なくともメインではなかった。 もしそうであるとしたら、おれは高級バッグなんかとは比較されなかったからだ。
おれの人生はたかだかモノと引き換えになるようなものだったとその時知った。 そんなたかだかモノとは比較されたくはなかった。
「考えすぎ」という人がいると思う。 しかし、おれからするとあなた方が「考えなさすぎ」なのだ。 おれは小学生の頃に、他人への思いやりがないなどと言われたが、 全くそうは思わなかった。おれは、何をいえば他人がどう思うかはすべて読み切っていた。 その上で、適切に言葉を「選択」していたに過ぎない。 だから、そもそも無神経な人間と同等に見られたくない。 この無神経な世界で、神経の通ったおれが生きていくことは苦痛だ。
以前にも話したように、 おれは母親をLINEでブロックした。 育ててもらった恩自体はある。 しかしあまりにも関係が破綻している。 歯のことは些細なことに過ぎない。 根本的に、愛情を感じなかったのだ。 愛情がないから、 将来的な幸せに大きく影響を与える 歯についても真剣に考えてくれなかったのだろうと思った。
こういった理由でおれは、 子供を作ってもその子供は、 小さい頃はただバカみたいに笑ってるから幸せそうに見えるけど、 やがて大人になれば生まれてきたことを後悔するし、 親を恨むようになると確信しているのだ。 だから、子供を作ることは悪だと思ってるし、 子供を作ってるやつは頭がおかしいと思うのだ。
フェイスブックで子供が生まれました!などと報告してくるやつを見ると反吐が出る。 その子供がこれから不幸になるということがなぜわからない? 生まれてこない方が良かったと思うことがなぜわからないんだ?
人間を産むことは、人間を不幸にするという意味では、人間を殺すことと大差ないとおれは思っている。 人間を殺した写真をフェイスブックにアップしたら批判されるだろうに、 人間を産んだであればいいねとなるのはなぜだ? どのみち、同じことじゃないか。
おれが父親の死について語った記事を読んで、 感動してくれた人もいるようだ。 それは単純に、おれが父親に対して感謝をしているから、 他人を感動させる文章が書けるのだと思っている。
おれの父親は脳の癌で死んだ。おれの父親も当然、家にお金がないことは知っていた。 もしおれが私立中学に行かなければもっと楽な生活が出来ていたことも知っていた。
そんな父親が、おれが大学院を卒業し、実家に帰った時、唐突に 「麻布に行って良かったか?」と聞いてきたことがある。 おれは何をいまさらと思ったが、素直な気持ちから、良かったと答えた。 そしたら「そうか、それは良かった」と答えた。
これが何を意味するかというと、 彼にとっても自身の人生において多大な犠牲を払った上で 得たものが、「おれの幸せになってるかどうか」が重要だったのだ。 彼が得たいのは、一流高校を出て一流大学を出て一流企業に入って 社会的に立派になった人間ではなく、おれという人間の幸せだったのだとおれは思った。
その裏返しとして、 おれは彼の幸せ自体は願っていたのだと思う。 だから、おれがいかに彼の無念を思っているからが伝わり、 読んでる人に気持ちが伝わったのだろう。
では、母親についてはどうだろうか。 残念だが、感情が見つからない。 ただおれのためにがんばって金を稼いだ人以上に見ることは出来ない。 彼女も自分の人生を犠牲にして、子供に多大な投資をしたことはわかる。 しかし、それだけだ。
実際、母親の親であるところのおばあちゃんの健康が怪しいらしく、 見舞いに来いと言われたことがあったのだが、 「なぜ?」という気持ちしか沸かなかった。 なぜ、あなたの母親のことをおれがケアしないといけないんだ?という意味だ。 おれには無関係だろうくらいにしか思わない。
そのくらい破綻している。
もはや正月の親戚集まりにも呼ばれなくなったから、葬式にも呼ばれないかも知れないが、 むしろその方が一貫性があって良いくらいに思っているくらいだ。
おれがこういう文章を広くネットに公開することで彼女がなんらかの被害も受けるだろうことはわかっている。 それは第一に、自分の子供から裏切られたという精神的被害だろうが、 親戚から追及を受ける場合もあるだろう。 この記事を読んだご近所から白い目で見られることもあるだろうと思う。
しかし、すべて想定のうちであり、復讐のつもりでわざとやっている。 「ざまぁみろ」としか思わないのだ。
おれがこうやって破綻した人格を全開にし、 堕落の道を全速力で駆け上がろうとしているのも半分はわざとだ。 彼女が人生をかけて手に入れた「超高級バッグ」を目の前で全部燃やしてやってるに過ぎない。
彼女の母親のことを無下にするのも、 自分のせいで、自分の母親がその孫に無下にされることは たまらなく苦痛だろうと思うからだ。
思い返すと、 おれはもとからそれなりに壊れてはいたが、 人生に対してどうでもよいと思いはじめてきたのは、 父親が死んでからかも知れない。 そういえば、それまでは死にたいと思ったことはなかった。 これは、父親の死に関する記事を書いてる最中に 気持ちを整理していたら思うようになったことだ。 父親の死はおれにとって、自分の幸せ自体を真に願う人間がこの世から 消え去ったことを意味したのだと思う。
たぶん、おれにはもう、幸せになる理由がない。 なろうとする理由が見つからない。 おれに幸せになってほしいと願う人間がいないからだ。
中学受験では、子供をブランド品扱いするということはよくあることだ。 おれの母親は、そうではなかったとは思う。 おれをモノとしてみたのではなく、モノと比較しただけだからだ。 そしてそれは、お金がないという現実的な問題から生まれた考えであったことも おれは理解している。
しかし、結果としておれは、母親からの愛情を感じることが出来なくなった。 おれが、LINEをブロックしたのも、ただ鬱陶しいからだったというわけではなく、 自分の幸せを願う気持ちが足りないということを抗議したかったかも知れない。
この記事を読んだ人が、 親子関係を見つめ直すきっかけになることを願う。
おれが貧困の中にしか幸せを見い出せないと思っているのもきっと、 モノから解放されることが、真の愛情に繋がると考えているからだろうなと自覚しはじめている。
独特な結婚観:貧困の中にこそ真の家族愛が芽生える幸せになる理由がほしかった。おれは一人じゃ生きていけないよ。