今おれが思っていることは、 もうこいつからは手を引いた方が良いのではないかということだ。 おれはルシファーのヤバさを見誤ってた可能性がある。 この男は、関わってはならない類の人間ではなかっただろうか。
それに、現状を整理すると、 おれにとってルシファーについて書いていくメリットはもうあまりない。 ほぼ間違いなく国試は落ちただろうし、 今後ルシファーに関して新しい記事を10本書けるとは思わない。 ルシファーというコンテンツが完全に終わってしまったからだ。 今後、国試不合格が確定するまでの約一ヶ月間、毎日同じことが続くだろうし、 その日以降は昨年と同じようなことが起こるだけだ。 明らかに、もうコンテンツとしての価値を失っている。 今振り返ると、他己採点により点数がわかった夜が絶頂だった。 あれは、最高だった。 そこで撤退しても良かった。
予告したとおり、 3/16には予約投稿が仕込んである。 これは間違いなく事実だ。 その記事には、おれの真骨頂ともいえる、 人の心をえぐるための表現を詰め込むことが出来ている。
しかし、国試不合格になれば十分だったはずのことを思えば、それはやりすぎという見方も出来る。 囲碁で例えると、勝負というのは半目勝てばいいのだ。 もし10目も20目も勝とうとすれば、形にスキが出来、却って逆転を許してしまうこともある。 ルシファーが国試不合格になることを半目勝ってる状態とすれば、 それから圧勝に持っていくことに何の意味があるのかわからなくなってきた。 そこで残念だが、予約投稿については、取り下げることにしようと思う。 楽しみにしてくれてた人もいるだろうから、申し訳なく思う。
ところで、特に国試不合格を悟ったあとのルシファーを見ていると、 ふと考え及ぶことがある。 それは、ルシファーは本当に筑駒でいじめられたのだろうか? ということである。
おれはいじめという表現から、第一に殴る蹴るという暴力を想像した。 しかし、少なくとも麻布学園では、そういった類のいじめは見られなかったし、 常識的に考えて、中学受験の上層に行くような育ちのよい子供が他人に対して暴力を伴った いじめを行うということは考えづらい。 そもそも暴力事件すら稀なのだ。
では、彼のいういじめとは何だったのか。 おれが想像するに、それは「無視」ではなかっただろうか。
彼は動画の中で、筑駒は行事への参加を強要されていやだったとは言った。 おれはこれがいじめと何か関係あるのかとも考えた。 例えば、イベントに一回参加しなかったことでその後はぶられてしまったとかだ。 しかし、これはいじめとは全く関係なかったのではないかという結論に至った。 さきほどと同様に、そもそも、筑駒に行くような学生が、文化祭に参加したくない と言ってることだけを理由にその人間をのけものにしたりするだろうか? 例えば麻布学園では文化祭に参加するも、部活に参加するも個人の自由だ。 筑駒は国立だから、行事への参加が必須になっているということはあるかも知れない。 しかし、そこにいる学生は結局、開成や麻布にも合格したような秀才であり、 人間の質はそこまで変わらない。 だとすると、筑駒も似たようなものではないのか。
まともな人間は、相手が自分のことを嫌っていることを理解出来る。 そしてそうと分かれば、それ以上は関わりを持とうとしない。 例えば、女性に嫌いだと言われたら関わりと断とうとする。 だから、告白することが怖いといってためらったりするのだ。 嫌いだと言われたら関係が完全に壊れてしまうから。
ルシファーはこの理解力に乏しいから、嫌われているという事実に気づかずに、 周りと積極的に関わろうとしたのではないか。それで最後には完全に無視されてしまった。 そして、無視されること、あるいは明に「お前とは関わりたくない」などとの言葉を以って のけものにされることをいじめと感じたのだろう。 それとは全くパラレルに、イベントへの参加を強要されたことが単に嫌で、 結局筑駒を退学したということなんだろう。 そういう結論に至った。
どうしてこう考えるかというと、 おれ自身もこいつを無視したくなってきたからだ。 筑駒の同級生も同様に、ルシファーと 関わると良くないことに気づき、無視し始めたとしても不思議ではない。
いじめられたという事実が本当か疑い始めたのは、 とりまきのことをアンチと認識出来ず友達と呼んだり、認知が正常でないところを見ると、 いじめられたという言葉自体もそのまま受け取ることは危険と感じたからだ。 もしかしたら、同級生たちはいじめをしていたという認識は一切なく、 ただ関わりたくないから無視していただけで、それをルシファー側が 勝手にいじめと感じたという話だったのではないだろうか。 今、自分のことを嫌ってる人を好いてくれてると勘違いしているところを見ると、 あながちこの推測も間違ってはいないように思える。 こう考えると、自分が嫌われてることを正しく認識出来る能力というのは 社会で生きていく上で実はとても重要だということがわかる。
おれがルシファーのことを嫌ってるということ自体は正しく伝わってくれて いてほしいものだ。