自由の学風なのか自由な学風なのか
ネットで「京大 自由」などと検索すると京大について「自由の学風」とか「自由な学風」 とかいうキーワードが引っかかること。 京大に入ったことがない人でも、バカのくせにこの言葉だけは一丁前に知っている。
これに対して、きっと多くの人は違和感を覚えないだろうし、 きっとこの表現のうちいずれかを使った人自身も、特に意識していない場合が多いだろう。
ツイッターを使った事前調査
「の」と「な」の違いについて 確固たる認識が存在しないことはこの記事を書く前にはただの仮説であったが、 それを確認するためツイッター上で調査を行った。
その結果が以下である。
投票数27と決して多くはないが、 2つの投票が割れたということから どちらが正しいかはっきりとは言えないと考えられていることが 伺い知れる。
私が正しいのは自由「の」学風だと思う
では、どちらが正しいのか?
私は自由「の」学風であると考える。
この記事ではその理由を話す。
私がこのテーマを語るのに適する理由
私がこのテーマについて話すのに適してる理由は、 私が麻布高校の出身であり、京大の出身でもあるという事実だ。
麻布高校もまた、京大と同様に、自由というキーワードと一緒に語られる 学校だからである。 麻布高校から京大に進む学生は一年で10人程度しかいない。 つまり、年に10人しか生まれないのだ。 つまり、私は自由の専門家なのである。
麻布中高と、京大で合計12年。 自由とは何かを考えながら青春期を育った私が、今回は自由について語ろうと思う。
自由「の」学風である理由
みなさんが京大の自由に対して思い浮かべるイメージというのはこんなものである。
- 授業に出なくてよい
- 規則がない
これは例えるならば、フリードリンクのフリーと同じである。
他には自由で柔軟な発想というのもあるかも知れないが、これはただ頭が良いだけである。 頭の良い学生であれば東大だろうが東工大だろうが、自由で柔軟な発想をする。
一方で、京大の自由というのは、実際には自主性と責任の問題である。 つまり、学生には自分で何をすべきか考え、自主的に学ぶことを求めるし、自分の行いに対して責任を持つことを求める ということである。それを行う限りは、大学は学生を規則によって縛ることはしませんという ことである。つまり、自由は単なる結果なのだ。
では、なぜ自由「な」学風では間違っているのか?
これについて考えるのに、対象が学風だと先入観もあるし、学風とはなんぞやもあって難しいから、
- 自由な戦士
- 自由の戦士
の2つのニュアンスの違いを考えたい。
このうち、自由な戦士というと、自由がすでに与えられていて、 ただ自由に戦っているだけの男だが、 自由の戦士というと、自由のために戦っているニュアンスが生まれる。
京大の自由というのは、むしろ後者なのである。 だから、自由「の」学風なのだ。
だから、 主に政治的な場面では、 京大の学生というのは常に、自由を求めるための自主的な活動をして、 その結果として大学側と対立するのだ。 しかし対立すらも悪いこととは解釈されない。 なぜならばそれ自体が京大が求めているものだからである。 つまり、議論である。
職員の執務妨害で「学生の本分を守らない」から無期停学 京大「厳罰化」は妥当なのか
今年、看板を立てた学生が大学から停学処分にされるという事件があったが、 これが自由の学風の終わりだと言われてるのは、 大学に楯突く学生を「学生の本分を全うしてない」として 処分してしまっている点である。 一体どこに問題があるのか、議論し、外の人間にもわかるように説明してほしい。 その看板がどういう内容であったかは知らないが、きっとその学生は、その内容については責任はとると言うつもりで 主張をしてるのだから、それすら認めないというのは、自由の校風のおわりと言ってもよい。
授業への出席という場面においても、 学生が自主的にやることであり、 その結果試験結果がどうなろうと大学は何も救済しない。 実際に、出席点が100点中20点ほどある科目も少なくない。 これは全学生向けの一般教養にもあるし、 専門科目にも存在する。 しかし、もし残りの80点のうちで満点をとれば優をとれるし、 3/4とれるなら60点で落第は免れることが出来る。 もしそれに責任を負うことが出来るなら、自主的に授業に出ないことは認める と言われているのである。 実際に京大生というのはこういう時に、むしろ面白いと考えて、敢えて出席点を捨てて 試験一発で勝負しに行く人間がいる。実際に私もそうであった。
授業に出席しない人が高得点をとることが不公平?この国は終わりだなという記事を書いたが、こんなことを言い出すバカは存在しない。 理解不能である。どうして自由を自分から放棄しようとするのか。
その他、あらゆる場面で、自分の頭で考えることを要求される。
このように、京大の自由というのは、 与えられるものではなく、自主的に勝ち取るものなのだ。
自由に生きてる人羨ましいのは自由の解釈が間違ってるから
この自由の解釈を誤ってしまうと、 自由に生きている人がねたましいとか、 そういう意味不明な発想に至ってしまう。
しかし、実際に社会に出て自由に生きているように見える人というのは、 自主的にその道を選び、責任を伴って生きて、その結果 自由を勝ち得ているにすぎない。 その自由は、ただ与えられたものではないのだ。
だから、ずるいとかねたましいという発想に至るのは間違ってる。 あなたにだってその道を選ぶ権利はあるし、 ただ選んでいないだけだからだ。
自分の頭で考えて、自分で道を選ぶ権利は誰にでもある。
京大の自由と麻布の自由は同じ
麻布も自由な学校を言われる。 この自由というのは、京大の自由と同じである。
よく、服装が自由、髪型が自由、校則が3つしかなく、 授業中に出前を頼むことも可能だというフリードリンクな面が 取り沙汰されるが、 これは本質ではない。
麻布も京大と同様に、 自分の頭で考えることを要求する。
だから、中には麻布に入って学風に合わず、混乱してしまう子もいる。 ただ中学受験で親や塾に縛られて高偏差値を叩き出し、結果として麻布に入っただけの子は、 いまいち合わないということが時々起こる。 成績が良いなら他に選択肢もあるので、塾に諭されるなどしてふつうは他の学校に行くだろうけど、 たぶん親のブランド志向とかで不幸になってしまう子がいる。
これは同様に、京大でも起こる。 京大の場合は、多くの学生が地方の進学校出身の単なる受験マシーンだから、 いざ自由ですと言われた時に何をするか戸惑ってしまう子は結構いる。 では大学のグレードを下げるかというとそういうわけにも行かないだろうから、 自由の専門家は、かわいそうだなとは思って見ていた。
有名進学校は自由な傾向が強いのはなぜか
麻布は、自由しか取り柄がないから特に自由のことが取り沙汰されることが多いが、 上位の方の学校というのは、おおむね自由なことが多い。 関西では灘、関東では筑駒、開成、桜蔭など、多くの学校が自由傾向にある。 これは、入学者の頭が良いからである。頭が良いから、自分の頭で考えろと言われても、 本当に自分の頭で考えて自主的に行動するのだ。
もし、これをバカな学校でやってしまったら、 刑務所で囚人を牢屋に入れておかないようなものであり、 きっと殴り合いからはたまた授業中にセックスするものまで現れるだろう。
この刑務所というたとえは中学受験に実際に触れている人であればさほど違和感はないだろうと思う から使った。実際に中堅の私立中学の中には、大学受験成績を上げるために学生をしごきあげる、 受験少年院と呼ばれる学校もあるからだ。
麻布学園は素晴らしい学校だ
麻布に入るには中学受験をするしかないから、中学一年生の段階からこれが求められる。 これが素晴らしい経験なのである。
麻布卒のOBはたくさん面白い人がいるが、 特に面白いのが格ゲーのプロゲーマーのときどくん。 彼も自由について語ってるからぜひ併せてご覧ください。
もし興味があれば、中学受験体験記も過去に書いたから読んでみてください。
25年目の麻布中学合格体験記今年麻布中学を受験する子が増えることを願っています。