では、エンプティノーズ症候群(ENS)という病気について、 そして現時点で判明しているその原因、治療法について話した。
エンプティノーズは、 鼻腔内において空気の通りを知覚することが出来なくなることによって 鼻閉を感じるという病気であるが、 それはただ鼻閉を発生させるだけでなく、 空気は通ってるのに通ってないという矛盾した感覚 から過呼吸、ひいては精神疾患を引き起こす。 患者は自殺することもあるが、時には原因を作った医師を殺すこともある。 恐ろしい、医原性の病気である。
おれももう20年間、この病気に苦しめられてきた。 自身の持っている性能を最大限に引き出せていないことについては 常に悔しい思いをしてきたし、 鼻閉が直接の理由となって京大時代から付き合ってきた恋人に振られたこともある。 これについては、女というものに対するおれの考え方に大きな影響を与えたから、 エンプティノーズが治ったならば、 今度また別に話そうと思う。
おれはエンプティノーズを治し、人生をやり直したい。 おれは中学受験全勝の元神童なので、6速までギアを上げることが出来ればまだまだ 知的人生を楽しむことが出来る。 筋肉についても、おれは胸郭が硬いために肩がロックされて肩が壊れるという 問題を抱えているが、この根本原因はおかしな呼吸によって胸周りの筋肉を使いすぎていることに あると考えている。エンプティノーズを治し、正常な呼吸を行うことが出来るならば、 おれはベンチプレス150kgを挙げることが出来るだろう。 自律神経失調症が改善することと、鼻詰まりによるストレスが軽減されコルチゾールが減ることも 筋肥大に対してプラスに働くため、達成が難しいとは思わない。 頭脳スポーツの頂点である囲碁については、 全能力を解放したところで必ずしもアマチュアの頂点に立てるかどうかというのは分からないが、 能力のすべてを出し切らずにこのまま投了するくらいならば、今すぐ死んだ方が優る。
もちろん、結婚もしたい。入院中にキングダムを読んでいてより一層そう感じるようになった。
エンプティノーズの治療として主に行われているものは、 基本的には鼻腔内の下鼻甲介が欠損した箇所に対して 移植を行い、新下鼻甲介を作るものである。 これにより鼻腔内を狭小化することを目的とする。 そうすることで鼻腔内の気流速度を上げ、 それが鼻腔内の温度を下げることによって、 鼻腔内の知覚を司るTRPM8というチャネルを活性化させることが出来る という仕組みである。
この移植には、肋軟骨片を移植するもの、 (欠損が小さい場合)耳介軟骨を移植するもの、 人工真皮を移植するものなどがある。 こういった、新下鼻甲介を作る手術のことを 総称して「IMAP手術」という。
今回おれは、埼玉の毛呂というところにある埼玉医大で
に基づく手術を受けた。論文は2022年のものであり、かなり新しい手法といえる。 この手法は、鼠径部から3x8cm程度の真皮脂肪を採取し、 それを鼻腔内に移植するものである。
真皮脂肪とは何だろうか。 おれも話を聞くまでは知らなかったのだが、 人間の肌の下には筋肉に至るまでに何層もの層があり、 このうち真皮と脂肪を合わせたものを真皮脂肪という。 真皮脂肪はコラーゲンや血管などを豊富に含むため、良いグラフトとして知られており、 例えば美容整形の分野では鼻のプロテーゼを除去したあとに 真皮脂肪によって置き換える手術が行われているようである。
この真皮脂肪は、
- 自家移植であるが故に拒絶反応が起こる可能性が低い
- 採取する量に柔軟性がある
- それ自体が柔らかいため、下鼻甲介のエミュレーションに適している
と言った理由から、IMAP手術には向く。
一方で、
- 採取部位に傷跡が残る
- 生着するまでに吸収が起こるため、これが不確定要素になる
という欠点もある。
前者は傷跡も対して痛むわけではないし、鼠径部から取り出すため平常時に目立つわけではない ため大きな問題ではないが、 後者については確かに気になるところである。 これについては、術者の経験に基づいて吸収を逆算して移植することになるが、 実際に美容整形でも使われているくらいなのだから、そこまで予想が大外れするような 性質のものではないのだろうと推察した。 また、鼻腔内を狭めることを目的とするのだから、 そこに求められる精度はおそらく美容整形よりも低い。 美容整形では、1mm読み誤ったら事故だろう。
これらのことを理解した上で、 手術を受けることにした。 究極的には、下鼻甲介自体を再生医療魔法で復活させることが出来れば それが一番確実なのだが、それを待っているうちにおそらく死んでしまうだろう。 そういった非現実的な究極解の外では、比較的マシな手法だと考えたというわけである。 特に、肋軟骨などの骨を入れる系の手法はなんとなくやりたくないという直感があった。 これは、肋軟骨を取り出すことは、真皮脂肪を取り出すよりも遥かに侵襲が高いということもあるが、 この手術において大切なのは、グラフトが柔らかいことではないかと思うからである。 鼻腔の中に骨で詰まった固い新下鼻甲介を作ることはおそらく、自然な気流を妨げる。 また、ベンチプレスのことを考えた時にも、肋軟骨を取り出すことがどういう悪影響を与えるかは わからない。素直に考えれば、フレームが弱くなるのだからそれだけ出力も弱まってしまいそうだ。 左右のバランスがおかしくなる可能性もある。 だから、出来ることならば肋軟骨は取り出さない方がいい。
毛呂駅は、八王子から1時間くらいのところにある。 その途中には金子という駅があり、「Next station is Kaneko」というアナウンスが流れる度に あの男が「もう、次の世界に行こうかなぁ」と言ってる姿を想像して笑えるので、 あの男のファンは一度、八高線に乗ってみると面白い。 しかしそれ以外は退屈な田舎線であり、民度も低い。 一度、偏差値が低そうな高校生二人組が疲れたサラリーマン風の男に絡んでたことがあったが、 君子危うきに近寄らずという言葉のとおり見て見ぬふりをした。 麻布京大のおれが、八高線の中で命を落とすことは許されない。
埼玉医大は山の斜面に建てられており、棟間の移動はちょっとした山登りになる。 学生用のキャンパスは山の上の方にあるから、学生たちはちょっと大変だろうが、 診療は主に、山の下の方にある本館で行われているからそこまで問題はない。
さて、肝心の手術は10月3日に行われ、おれは翌4日には退院した。 それからかなりの疼痛があったが痛み止めで黙らせ、 鼻腔の治癒を早める目的で、指示されたとおりに鼻うがいを毎日2回、継続している。
それで今どうなったかということだが、耳かき用カメラで撮った写真を見せる。
手術前(左、右)
手術後4日目(左、右)
特に左は手術前は相当空っぽだったものが、下鼻甲介よりも高いくらいの位置まで 膨らんでいることがわかるので、奥行き方面にも埋め込んでいることを考えると相当量の 移植を行ったことがわかる。 実際、術前説明でも、鼻腔の空洞が大きいからおそらく論文に書いてあるより大きい3x10cmくらいの グラフトが必要になると言われており、実際に右鼠径部に対して12cmの切開が行われている。 右はカメラの角度の問題で前後の比較がしにくいが、 こちらも鼻中隔に引っ付くくらいみっちりと移植したことがわかる。
ただ気になっているのは、 今になっても左の鼻のみ多少痛む点と、 カメラで見ても 左の新下鼻甲介の出血が右に比べて明らかに大きい点、 また、色が悪い点である。
出血が大きく血のりがこびりついてしまってるだけならば良いのだが、 もし、移植に失敗していて壊死しかけてるのだとしたらと考えるとかなり不安がある。 今後の経過によって、鼻中隔との間にある止血剤も溶け、きれいな新下鼻甲介がこんにちはすることを 願うしかない。
術後2日目の夜に一度38度の熱が出てかなりの寒気があったため縫合不全かと思って焦ったが、 これについてはすでに平熱に戻り、痛みについても痛み止めを飲まなくても耐えられるほどにはなった。
手術への期待値であるが、 仮に、移植に成功したとしても、 エンプティノーズ自体が治るとは限らない。 というか、IMAP手術は下鼻甲介自体を復活させるものではないので、 鼻機能は完全に元通りにはならない。 例えば、鼻水を出して鼻腔に潤いをもたらす機能は明らかに回復しない。 だから問題は、何をゴールとするかということになる。
おれの場合は、鼻の中に抵抗を感じることが出来るようになればOKと考えている。 おれの中では、思考を妨げる一番の問題は空気がすっぽ抜けることであり、 それが解決すれば思考のギアを上げることが出来ると考えているからだ。 鼻腔の潤いなどは、スプレーでもジェルでも、いくらかでも解決法があるが、 構造的な問題は手術以外どうにもならない。
ただ、この点については、ある程度確度はある。 むしろ問題は、本来人間の鼻腔にはない構造を作り上げることによる副作用だと思う。 まず医師から説明されていることとしては鼻涙管の閉塞がある。 鼻涙管は下鼻甲介の裏あたりに出口があり、当然、下鼻甲介の下に新下鼻甲介を作れば、これが 直接的か間接的なんらかの理由によって閉塞される可能性はある。
あとは、本来人間の設計図には含まれていないものを作るわけだから、 それによって鼻腔の気流が人知を超える可能性はあると思うが、 IMAP手術についてはCFD解析によって、術後に気流が安定化することは示されており、 個別ケースではどうなるかわからないものの、それなりの確度がある。
ここまで、99%は満足の行く結果になると読んで手術に挑んだ。
最初の手術を受けたのが高3の春だった。 それで良くならず、浪人し、 一浪の秋に再手術を受けた。 ここで下鼻甲介の全切除を行った。 鼻は一層鼻がおかしくなり、一浪時は大敗した。 翌年に京大に合格したが、運が良かっただけだ。
あれから20年、いつか鼻を治すチャンスが来るはずだと思って しのぎながら生きてきた。 そして、去年の夏に慈恵医大を紹介してもらい、 あの当時には存在しなかった手術を2つ受けた。 1つは今年の春に鼻中隔の外鼻形成術、 そして今回は鼻腔のIMAP手術。
しのいでいれば必ずチャンスは来ると信じたおれは正しかった。
しかし、今回で失敗すればもうおれにこれ以上戦う気力はない。 その場合、投げさせてもらう。