大学受験はいつから人生のゴールになったのだろうか

今年、横浜なんとか高校とかいう公立高校が東大合格者数で爆上げして、ネットではこんな論調が目立った。

「公立高校でもがんばれば中学受験御三家を逆転出来る」

この論調は中学受験敗北組が大学受験で逆転という文脈でよく使われていたが、 ついに公立高校までしゃしゃり出てきて鬱陶しいので この際に説明しておくと、 逆転というのは比較が成り立つから成立する概念であって、 中学受験と大学受験は比較不能だから、逆転という概念は存在し得ないというのがおれの考えである。

逆転というのは例えば、陸上競技のタイムなんかで 中学生の頃は負けていたけど、大学生になって逆転したというのは競技も基準も全く同じなので正しい主張だが、 中学受験では負けたけど大学受験では逆転したというのは、 将棋で負けてたけど囲碁で逆転したと言ってるようなものだ。

正しい表現は、「将棋では負けたけど、囲碁では勝った」だ。

そもそもだが、中学受験というのは大学受験を有利にするために行うものではない。 そういう人もいるかも知れないが、基本的には自分が受けたい教育を受けるために進学するのであり、 麻布であれば、麻布で中高の教育を受けたいから進学するのだ。 当然、中学受験上位層は地上の民に対して競争意識すら抱いておらず、 そもそも勝負すらしていない。これを逆転というのはどういう発想かというと、 口笛を吹きながら優雅に街を歩いてるカール・ルイスを追い抜かしてカール・ルイスに勝ったと言ってるようなものだ。

真に良い教育を受けるために進学する例として武蔵を挙げたい。 麻布卒が語る。武蔵は最高の学校だ。 に書いたように、武蔵というのはこの対極にある学校で、 大学進学実績を完全に無視した上で、日本で一番良い教育を行っている学校だ。 この学校は筑駒とのダブル合格の際に、筑駒蹴りの率が一番高い学校だと言われている。 なぜならば、受験者は武蔵の教育を受けたくて武蔵を受けているからだ。 彼らは決して、偏差値や進学実績を目当てにしているわけではないのだ。 おれはこの武蔵という学校がとても好きだ。

以前に、母校の麻布学園が、もしうちが東大に合格することをゴールとして 教育をするのあれば全員合格させられるというほらを吹いたらしいが、 とりあえずおれは残念なことに京大工までしか合格してないのでそこまでしか言えないが、 たぶん京大工ならば全員受かるんじゃないかとは言える。 そのくらい難易度の高い中学受験を突破してきている集団だからだ。 だから、社会に出ても一流私立の出身という経歴は地頭の証明として評価される。 筑駒も開成も、本気で東大合格実績をゴールにするならばもっともっと数字を出すことは可能だろうが、 そもそもそこにゴールに置いて教育をしていない。(筑駒は国立なのでそもそもまともな教育をしていないが) それであの数字を出すからやはり地頭の桁が違うということがわかるだけだ。

おれはもともと、学校や塾で 叩き上げて東大を始めとする難関大学にぶちこんでも何の意味もないという考えを持っている。 中学受験が終わったら大人の勉強を学ぶ必要がある に書いたように、 大学受験というのはまじめに知識を積み上げる能力があるかどうかを測る試験であり、 中学受験とは性質が異なる。 その穴に着目して、 そこそこの能力を持っている学生にメッキを塗りたくって 突破させるスパルタ教育を行う中高が良いとは思わない。 今年爆上げした西大和なんかもスパルタ教育で有名だし、あまり良い印象を持っていない。 馬でも鹿でも叩き上げれば勝てるなら、ダービーに価値はなくなってしまう。

それで逆転だなんだのと声高に言えるなんて、 そもそも上に述べたように論理的にバグってる上に羞恥心を持ち合わせていないようなものだ。 公立組についてはもはや中学受験してないんだから、それ以前の問題だ。 逆転の「逆」は一体どのように導いたかご説明願いたい。 公立人間はまじでゴミが多い。

ところで、なぜ彼らは「逆転」などという言葉を使うのだろうか? おれが思うに、それは彼らが大学受験をゴールと捉えているからだ。 おれはこの風潮に大変違和感がある。

昨今、西大和や聖光など二番手グループの学生にみっちりと受験指導を行って 大学合格実績を無理やり叩き出す学校の人気が上がっているが、 おれ自身は、こういった教育熱心なだけの学校はよく思っていないし、 ロクな人材を輩出出来るとも思わない。 もちろん、子供が進学に失敗してしまうことは親としては望まないことだろうし、 そのために出来るだけ面倒見のよい学校を選ぶというロジック自体は理解出来るのだが、 それが子供にとっても幸せであるという思い込みをしているならば、誤ってると思う。 実際、これらの学校の出身者で母校を誇ってる人間は皆無だ。 河野玄斗なんかはっきりと、中学受験で失敗したと言っている。 聖光の帰国枠しか受からなかったなら そりゃ失敗と言っていいだろうが、聖光に行くのは受験失敗と言っているようなものであり、 母校愛に欠けることは間違いない。

河野玄斗が神脳と言われ、メディアにもてはやされているが、 彼を神と呼ぶのは、彼自体が受験成功の象徴であり、それを視聴者が支持しているからだ。 しかしよく考えてみれば、理三に入り医者のライセンスをとり、弁護士のライセンスをとっただけの新人でしかなく、 まだ何も生み出していないし、これからも何も生み出せないとおれは思う。

これは見た感じ、天才のオーラをまとっていないからだ。 そもそも彼は中学受験で失敗してるだろ。 大学受験だって英語のアドバンテージがあればかなり有利だし、 理数能力ではそこまで有能ではなく、親によく教育されて要領よく勉強が出来るだけの人だという認識で、 遺伝的に優れているという感じのオーラがまるで出ていない。 こういう人間を神脳と呼ぶことに違和感がかなりある。

日本は、先進国の中では大学入学時の年齢がもっとも低い国だ。 同じく受験戦争が激しいお隣の韓国よりも半年早く、先進国の平均より2年か3年ほど早い。 これは、進学校に行き、勉強をし、出来るだけ東大に現役で入るということが 成功とされ、それに向かって多くの人がまっしぐらになっていることが理由だと思う。

年功序列で終身雇用の時代にはまだこの競争も正当化出来たかも知れない。 しかし今やそんなものはとっくに崩壊し、 能力がなければどんなに学歴が良くても評価されない時代になってきた。 子供を受験指導が熱心な進学校に入れ、 大切な6年間を勉強漬けにし神脳を目指すことが 本当に子供の幸せになると思ってるのであれば、 その価値観は古すぎると思う。

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