【25年目の麻布中学合格体験記】なぜこのシリーズを書いているのか

物語はまだまだ続く。

しかし、ここでひとまず、なぜこの「25年前の中学受験」シリーズを続けているのかということを話したい。

私は、中学受験は、自分の原点だと思っている。これを過去の栄光にすがってるとうがった考え方しか出来ないみじめな人が多いのは知っているが、私としては、自分の国や故郷のことを語ってるのと変わりない。もし、中学受験をしていなかったら、自分の人生は全く違うものになっていただろうなと思う。成功体験がなければ、今のように自信家にもなれなかった。男子校に進んでいなかったら、女に媚びへつらって生きるような人間になっていたかも知れない。思春期に共学に入れることは害でしかないと考えている。男子校の中でも麻布中学に進んでいなかったら、これだけ自分が揺るがない人間になれただろうか。私は自分のことが大好きでたまらない。35歳になり、自分の人生を見つめ直してみる余裕が出来て、自分の原点はどこにあるのだろうかと考えてみると、それは中学受験なのだということになった。

大人になった今、中学受験というものを思い返してみる楽しさもある。高校卒業後、中学受験の外の世界で、浪人時代、大学時代、社会人時代と色々な人を見てみたが、中学受験に全く無縁で生きてきた人を大勢見ると、一体あの狂った中学受験は私という人間にとってどういう影響があったのだろうかと考えてみたくなる。そのためには、中学受験という狂気の中で、自分が何を思っていたかを、おぼろげな記憶を辿っていく必要があるのだが、これらを書き残しておくだけの価値があると思った。それが、特殊な経験だからである。中学受験の半ば攻略本のような本はたくさん出ているが、それは多くの場合、塾講師の視点で書かれていることが多い。そうではなく、経験者が中学受験の中でどう思っていたかを言葉で伝えるということにも価値がある。

最後に、自分の中学受験における成功は再現性があるものだったのか整理して考えてみたいからである。私は当時、自分が麻布中学に受かったのは自分の頭が良いからだと思っていた。しかし、最近では自分はそれほど良い頭脳を持っているわけではなく、ふつう頭脳だと思うようになった。事実、今の私に私の頭脳が優秀であることを示すものは何もない。もちろん、麻布中学にふつうの子がいても良い。しかしふつうの子をふつうに訓練したのでは入れない学校であることもまた確かである。であるとすると、私の家庭や塾での勉強、食生活、習慣、性格などもろもろが何かプラスに働いていたと考えるのが自然である。その要素に再現性があるかどうかがわかれば、今度中学受験を志す家庭にとって有益な情報になるはずである。そのためにはやはり、記憶を辿っていく必要があり、それを文章に起こして整理していくしかない。

こういった話に需要があることはわかっている。

室井佑月「頭がいい子の机の上はぐちゃぐちゃ」――「子どもの才能が伸びる片付け術」に疑問

「私が知ってるすっごい頭がいい子、麻布中学に行くような学級委員長をやるような子の机の上は、ぐちゃぐちゃ」

頭の良い子は字が汚い、机が汚い、学習机で勉強をしない、朝ごはんをしっかり食べているなどなど。こういった話が社会的に関心事であることはわかっている。しかし残念なことに、先も言ったように「私はこうしていた」を話す人は少ない。塾講師の話も、こういったいち父母の話も価値のあることと思うが、私は自分の記憶をたどり、「私はこうしていた」を話していくつもりである。それすらたかだか一例にすぎないが、きっと、中学受験を考える父母やお子さんにとって価値のあるものになるはずである。

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