中学受験には物語がある。これから、その一つを紹介しよう。
かの偉大な大川隆法氏のご子息であられる大川宏洋(ひろし)氏は、生まれた時から麻布学園を経て、東大の法学部に入ることを宿命と定められていたらしい。しかし、実際には不合格となり、親に見限られたとYoutubeの中で話していた。
私はとてもじゃないがそんな環境ではなかった。
生まれた頃の記憶はないが、物心ついた時にはなんとか荘という名前のオンボロアパートに住んでいた。近くには養鶏場だか養豚場があり、今思うときな臭い感じだった。親は両方とも北海道の田舎から出てきたようなふたりで、安くて家族が住めるところというと、そんなところしかなかったのだろうと今になってみると思う。それにしても今調べると50m2もないような狭い家で、本当に最低限だったと思う。近くにはおばあちゃんが経営する駄菓子屋が2件もあり、あとは小さな雑貨屋が1件あった。ご近所付き合いが必須で、お近所は全員知り合いという感じであった。
小学生あたりで、もう少し広い家に引っ越した。一帯は新興住宅地で、周りには同じような年齢の子供で溢れかえっていた。丘の上には高級住宅街があって、そこらへんの人はほぼ全員中学受験をするような感じだった。私は丘の下の住人だった。別に惨めではなかったが、丘の上のやつらはすごいという感覚はあった。
幼稚園は、マイナーな幼稚園に入った。ふつうは家の近くの幼稚園に行くのだが、自分はなぜかみんなとは違う幼稚園に入った。そこは仏教系の幼稚園で、お経を読むことと、バレエの練習のためレオタードに着替えている女の子をカーテン越しに覗くのだけはうまくなった。一番の楽しみは、園長先生だか副園長先生だかおばあちゃんが毎日開くお茶会で、茶筅を使い苦いお茶を立てて、2回だか3回回して飲むという作法を習った。当然だがマイ茶筅を持っていたし、マイ数珠も持っていた。楽しみは、お茶と一緒に出るアルファベットやどうぶつのクッキーで、それを食べながら何か会話をするというのが楽しかった。これは義務ではなかったように思う。園児は少なかったが、それにしても参加しているのは数人という感じだったように覚えているからだ。
ここに入った理由だが、今調べるとシュタイナー教育を実施している幼稚園のようで、後述するようにおれの親がアンチ早期教育だからかも知れない。結果としてこんなニートになってしまったわけだが。
そこを卒園すると、今度は近くに新設されたふつう小学校に入った。しかし幼稚園の友達は、全員別の学校に行ってしまい、全く知らないやつらとの小学校生活が始まった。ちなみに良く遊んでたやつらは全員一流大学に入ったと聞く。知能によるフィルタリングかとも思ったが、冷静に考えると、親がわざわざふつうじゃない幼稚園を選ぶような家庭なら、自然とそういう結果になるだけかも知れない。そのうち一人の家にいって、ウルトラマン倶楽部というゲームをしたことは覚えている。しかしなぜだかわからないが、自分の頭の中には彼らと幼稚園で会った記憶がない。そうだとすると彼らは誰だったのだろうか。こんな怖い話はない。
最近は早期教育というのがもてはやされているが、私はそういうものを受けた記憶がない。ピアノと水泳は習っていたがそれだけで、英語を習うためにYMCAに連行されていったが、女の子と一緒に勉強することを猛烈に拒否した結果、YMCAはなしになった。
漢字も、小学校の前には覚えなかった。名前すら書けなかった。これは、親のアンチ早期教育論によるもので、頭の良い子供に早期教育をしてしまうと学校での勉強がつまらなくなってしまい、努力することを学ぶ機会を奪ってしまうという理屈で、私は小学校に入る前までは偏差値30だった。この教育方針は正しいと思うため、もし子供が生まれてしまっても、早期教育をする気はない。プログラミングの早期教育とかも心底バカバカしいと思う。ただし、多湖輝のパズル本のようなものは好んでやっていた。こういう頭のトレーニングは、間違いなく中学受験で有利に働いたと思うのでオススメしたい。
冒頭に挙げた大川宏洋氏は、超のつく早期教育を受け、小学校に入る頃には小6までの課程が終わっていて、それ故に学校が退屈でしょうがなかったと言っていたので、早期教育に一定の害があること自体は認められる。
小学生の低学年のうちはあまり記憶がないが、教室にあるオルガンを弾いたり、ドラゴンボールとかの絵を描いたり、あとはスカートめくりをしていた。はっきりと覚えているのは、国語のテストで55点をとって絶望したというのと、九九が全く覚えられずひたすら風呂の中でににんがしにさんがろくと唱えていたということくらい。
明らかに自分の頭が良いことがわかったのは小学3年生の時で、その頃には算数ドリルの解答スピードがクラスで一番だった。特に勉強していたという記憶もないが、他の科目もよく出来て、他人をバカにするようになっていた。というか本当にバカだと思っていた。
小3の夏だったか秋だったかは忘れたが、丘の上の連中が中学受験の入塾試験というのを受けるということがわかった。私はその誰よりも算数ドリルが速かったので、じゃあおれも受けようということになり、受けてみた。
最初に受けたのは日能研だったが、これが散々で、そいつらは大体一番上のクラスに受かっていたのだが、自分はEだかFという最下位かそれから二番目かの、ゴミのような結果だった。
やつらは、日能研を受けるために入塾試験のための勉強をずっとやっていたのだ。それをしないと、日能研で上位のクラスに入ることは難しかったのだと思う。実際に、試験中も全く手応えがなかった。これは生まれて始めて感じた屈辱だったと思う。とてもEクラスだったとは言えなかった。
中学受験の塾は地元にもう1つあり、そちらの方が難しいとされていた。日能研で最上位のクラスに入る子供でぎりぎり受かる程度とされていて、実際に受験成績も良い塾だったので、両方受かったらそっちに行くというのがふつうだった。
そちらの試験もあとになって調べると同じく2年生の頃から入塾試験のための勉強をして臨むようなものなので、特に解けたという気はしなかったが、なぜか合格した。クラスは60人かそんなもんだったと思うが、下から8番で合格した。クラスは1クラスしかなく、席順は入塾試験の成績順だったから、自分が下から8番だということはわかった。
そんなわけで、家にはお金がなくて、中学受験なんかする予定はなかったのだけど、たまたま一流塾に受かってしまったので中学受験をすることになった。そこから、遅れを取り戻すためのトラウマになるほどの猛烈な勉強をした。そのことはまた今度書こうと思う。