合格発表のスケジュールは当時、以下のとおりであった。
- 麻布中学 2月3日
- 栄光中学 2月4日
- 浅野中学 2月4日
調べると、栄光中学は現在では2月3日に合格発表を出しているようだ。どの学校も、出来るだけ早く合格発表を出したいという思惑がある。補欠合格のことなどを考えると、合格者に対して早めに意思決定をしてもらった方がよいからだ。
2月3日の浅野中学の試験を終えると、私の受験は事実上終了した。4日以降も願書は出していたが、それまでの手応えから、受ける必要がないことは明らかだった。中学受験は精神的にも肉体的にも大変タフなものであるから、出来るだけ早く切り上げることが、ダメージを少なくする上では好ましい。それにとにかく、中学受験から早く解放されたかった。
試験を終え、家に帰ると、母親は合格発表を見に行った。私は行かなかった。麻布中学までは遠いし、疲れていたからだ。実際、私はフラフラであったから、それから片道1時間半かけて広尾に行くことは難しかった。あともしかしたら、私は自分が合格していた場合、他の不合格の子に「慰め」の言葉を剛速球で投げつけてしまう可能性があるから、そういう意味でも連れていかなかったという説はある。最近は幾分マシになったが、小学生の頃は人間性が壊れていた。小学生の同級生の中には、あきらという名前と、悪魔的な頭の良さと悪魔的な性格をかけて、親しみをこめて「あくま」と呼ぶやつもいた。しかしこいつは、いいやつだった。
だから、同じく麻布中学を受験していた友達の家に行き、合格発表を待った。彼の家も同じく、母親が合格発表を見に行った。二人で一緒に見に行ったようだ。その時は気づかなかったが、もしどちらかが落ちていたらどうするつもりだったのだろうか。恐ろしいことをしたものだ。
家では、当時流行っていたゲーム「シャイニングスコーピオン」をしたり、ピアノを弾いたり、適当に時間を過ごした。
電話が鳴った。確かそこの家のおばあちゃんか誰かが興奮しながら子機を持ってきてくれたのだが、耳を当てると、母親が「あきらー受かってたよー!!!」と絶叫していた。絶叫していたのは、喜びもあっただろうが、むしろ周りが騒々しかったからだと思う。発狂したような歓喜が、電話越しにも聞こえていた。今だったらきっと、テレビ電話をするか写真くらいは送ってくるだろう。当時はまだPHS(ピッチと呼ばれていた)を持ってるのも珍しいくらいだったから、当然写真なんか送れなかった。便利になったものだが、音だけだからこそ、これだけ鮮明に記憶に残ってるのかもしれない。
私はというと、大した興奮はしなかったが、とにかくほっとした。周りは良かった良かったと言ってたが、良かったとか悪かったとか、そういうレベルの話はどうでも良いくらい、脱力した。これから麻布中学に進学出来る喜びもなかった。ただ、生き延びたという安堵であった。
もちろん、友達の方も受かっていた。彼の場合は、おじいちゃんは東大卒、お父さんは麻布卒で某大企業の役員とかで、私とは背負ってるものが違ったから、(その母共々)大変な重圧だっただろうと想像出来る。しかし実際問題としてこういう家庭の子は少なくない。塾の中には、重圧から狂ってしまった子もいた。
次の日は栄光と浅野の合格発表があったが、はっきり言ってどうでも良かった。合格してるのは知っていたし、それ以前の問題として合否自体にすでに興味がなかった。母親も大して興味がなかったようで、「どうせ蹴っちゃうけど一応見に行ってくるねー」と言って見に行った。その間、私は家のリビングでリラックスしながらテレビを見ていた。何時間か経ち、母親が帰ってくると「やっぱ受かってたよー」と玄関先で言ったが、私はピクリとも反応せず、「あっそう。良かったね」と他人事だった。頭はプレステのことを考えていたし、長い休みが明け、英雄として学校に行った時に、このことをどうやってみんなに伝えようか考えていたのである。
こうして、私の中学受験は終了した。戦績は以下である。終わってみるとあっけない、三冠であった。
麻布中学 合格栄光中学 合格
浅野中学 合格