ブログを書くことのモチベーションが 広告で稼ぐことだと言う人が多いのに驚かされる。 中には本当にその目的でしかやってない人もいて、そういう何の中身もないブログを見てしまう人もいる。 仕事だとすると、虚しい仕事だと思う。
もちろんお金は多少のモチベーションにはなるが、本質的ではない。 全く無収入だとやる気は起きないが、例えば記事を書くための本代とかちょっとしたカフェ代が得られれば それで十分かなと思う。有料のサーバを使ってるならそれも稼ぎたい。
収入でいえばやはり、プログラマを主としたい。 日本でもプログラマは比較的収入の良い職業だし、そんなにお金がほしいなら グーグルにでも入ればいいんじゃないか?と思っている。 本気を出せばそのくらい出来るという自信がある。 自信過剰というのであればそれでもいい。 お前らと違って、おれは全身がテストステロンに満たされている。
では、おれがこんなくだらないブログを書いているかというと単に楽しいからだ。 ここでいう楽しさというのは3つある。今回はそれを話したい。
楽しさ1: 表現の自由を満喫
新型コロナウイルスが流行し、より強く感じるようになったことだが、中国という国にはマジの意味で表現の自由がない。 武漢での発生の初期には、武漢市民が武漢の状況を伝える動画が拡散されたが、あれは本当に命賭けだったし、今どうなってるかわかったものではない。 中国以外の国にも、こういった規制のある国は存在する。
しかし、日本ではそういったことはない。これが実に幸せに感じる。 Youtubeでは、特定のトピックについて話すと広告がつかないとか、動画削除されるとか、 中国と変わらないことが行われているが、ブログではそういうことはない。
おれは、この自由を満喫しているわけである。 自分のメディアを持ち、自分の言いたいことを自由に書く、これほど価値のあることは存在しない。 おれはテストステ論というメディアに誇りを持っている。
楽しさ2: 読まれることは快感
テストステ論の記事が好きと言ってくれる人がいる。 そう言われるととても嬉しいものだ。 自分独特の感性だったり表現がウケたりすることは快感だ。
「テストステ論」、競プロ界隈の好きなブログ名TOP3に入りそう(あとのふたつは「いつも頭に問題を」と「ブログ名」)
— tomerun (@tomerun) March 30, 2020
たまに記事がいつもより多く読まれたりすると、 何があったんだろうと調べることになるのだが、 色々な人にリツイートされていたりすることがわかると、 これ自体も快感だったりする。
ラジオで話したことだが、麻布高校にいたとき国語の教師に 「お前の文章は何か面白いな」と言われたことがある。 それも、自分には独特の感性があって、 他人を楽しませることが出来ることの自信になっているし、 その先生が死んでしまったこともあって、 その痕跡を残したいという気持ちもある。 こんなくだらないブログを書いてると知ったら「やっぱりお前はだめなやつだな」 と言うだろうけど。
もちろん自分で読んでみても、やはり自分の文章は面白いと思う。 これはすごく大事なことだと思う。自分で読んでみても面白いと思わないのに 他人が面白いと思うわけがない。
雑記ブログ特有の現象だと思うが、 以前に書いた記事が突然読まれることがある。 例えばちょっと前におれは「完全自殺マニュアル」についてまとめたが、 これは情報がまとまってることもあってまぁまぁ人気シリーズとなっているのだが、 新型コロナが流行って経済がぶっ壊れた今、以前より明らかにたくさん読まれている。 死にたいと思っている人が増えている証拠だと考えている。実際最近、飛び込み事故をやたらと聞くようになった。 今挙げた例は不謹慎かも知れないが、 グーグルアナリティクスのデータから世の中を知れるというのは、雑記ブログならではの楽しみかも知れない。
楽しさ3: 執筆はパズル
おれの文章はわかりやすいと言われることがある。
わかりやすい文章を書くためには、
- 書くことを絞る
- 文章の流れを一直線にする
ことが重要なのだ。 読みにくくてしょうがない赤点!ということにならないように ここにはきちんと労力を割いているつもりだ。 もちろん、ある程度の推敲もしている。 誤字は当然として、副詞の位置など、細かいところで文章の読みやすさはがらりと変わる。
こんなことについて書きたいなとふと思った時に、 頭の中でこれらについてまとめる時間は、パズルを解くのと同じような楽しみがある。
そして実際に書きはじめると、実際にはこういう順番で書いた方がいいとか 表現的にこう言った方がわかりよいとかいうことがはっきりしてきて、これも楽しみとなる。
基本的にブログというのはまず、 この記事が何を言うものなのか、なぜあなたはこの記事を読むべきなのかを冒頭に主張して、 その関門を突破した読者をフローの中に流し込んであげるように設計する。 これは技術の問題であり、大学の理系学部にいけば卒論などを通じて学ぶことでもある。 おれの場合は加えて日立での研論でも激しくしごかれたものである。 あれは、無意味だとバカにする人が多いのだが、おれ自身は大変有意義なものだったと感じている。