安楽死は究極のセーフティネット

人生と囲碁は似ている。 しかし、囲碁には投了があるけど人生にはない。 人生は投了がないからクソゲーなのだ。 もし、人生に投了すなわち安楽死があれば 人生はより良いものになると断言する。

人生と囲碁は似ている

碁打ちの中には、囲碁は人生のようなものだと言う人がいる。 これはプロアマ問わず、人生経験が豊富な年配の方に多く存在する。

囲碁はまず布石から始まる。 大抵は星や小目に打つことからはじまり、 じっくりした碁ではそれぞれ布陣を形成していき、 ある時、中盤戦に突入する。

この布石というのは、教育だ。 人間でいうと、大学を出るくらいまでのことに相当すると思う。

囲碁では、布石で勝負がつくことはあまりない。 布石で軽く失敗した場合でも、中盤で取り返せるということが多いからだ。 これも教育と似たようなものだ。 必ずしも、東大や京大に行った人がそのまま勝ち続けるかというと そうでもない。 実際におれは京大卒だけど、人生には負け続け、 自殺するしかなくなっている。 おれの人生は完全に終わった。

一方で中盤戦では、一つの失敗が命取りになると言われる。 中盤戦は石と石が競り合ってるから、一つの失敗によって戦いが一方的に不利になってしまったりするからだ。 一方的に不利になった戦いは、また相手がミスしない限り互角に持っていくことは出来ない。 局所的な勝敗が、全体の勝敗に広がっていき、盤面が狭まっていくことからも 逆転の目を失っていく。

これも人生と似ている。 人生では失敗するなら早い方がいいなどと言われる。 若い時の失敗は学びにもなるし、やり直しが効くが、ある程度歳をとってから 失敗すると、やり直しは効かないし、人生が終了してしまう。 仕事を失い、家族を失うことになる。 そんな人がたまに、電車に飛び込むのがこの渇いた東京砂漠の恒例行事となっている。

中盤戦というのは、社会に出てから引退するくらいのことだと思えばよい。

中盤戦が終わると、ヨセに入る。 ヨセというのは、陣地の境界を確定させていく仕事であり、 プロレベルからは道筋が完全に見えていることも多く、 中盤戦同様相手がミスする以外には逆転の目はないが、 それは中盤戦よりも確率が低くなる。

ヒカルの碁で塔矢名人とsaiが対決した時に、名人が投了する際にも

「ヨセは一本道。正しい道は一つ。この者は間違うまい」

と言って投了しているシーンがある。

引退してから逆転することは無理だろう。 あとは、決められた余生を生きるだけだ。 これも、人生と似ている。

以上が、囲碁と人生が似ているという所以である。

人生は投了出来ない。これがおかしい

では、人生と囲碁で違うものは何だろうか。

決定的に違うものが一つある。 人生には投了というシステムがない。 人生を諦めることは出来る。それで自暴自棄になり犯罪を犯すことも個人の自由だ。 しかし、そうではなく、ただ石を盤上に置き、負けましたと言って一局を終わりにする仕組みがない。

これが間違っているのだ。と、おれは思う。

「人生と囲碁は違う。囲碁は投了したあとにもう一局打つことが出来るが、 人生はもう一回生まれ変わることは出来ない」というかも知れない。 確かにこの点は違う。人生にリセットボタンはない。

しかし、投了の目的というのは何も、さっさと投了して次の一局を打つためだけではない。 負けがわかっている碁を打ち続けることは苦痛だから投了するという場合がある。 もちろん、相手にとっても、勝つことがわかりきってる碁をぐだぐだと打つことは、 苦痛でしかない。 だから、投了するのだ。 むしろ大抵の場合、投了はこちらの目的で行われる。

人生の中盤戦で負けが確定し、 これ以上生きることが苦しいと思う人はおそらく私ではない。 実際に、生きるのが辛い、死にたいと思う人は、ネットを調べれば山ほど出てくる。

その時に、負けましたと言うのと同じくらい簡単に 人生を終わらせる方法が必要だ。

武士の時代には、その手段は切腹であった。 負けが確定した武将は、自ら腹を切って潔く自決した。 しかし現代人にこの勇気はない。もちろんおれも、切腹は怖いからいやだ。

麻薬を使い、VRの中で吉永あかねのおっぱいを掴んだらそれが投薬のスイッチであり、 やがて妄想の中で死ねるくらいの楽な死に方をしたい。

最高である。

AV女優こそが最強の女性である

投了がないから人生はクソゲー

もし、囲碁や将棋に投了がなかったら、誰がそんなクソゲーをやるだろうか? 明らかに負けているのに、ぐだぐだと打ち続けなければいけないのは 双方にとって損でしかない。

また、投了がなかったら打ち方も変わってくるだろう。 より無難に打つことを選び、勝負して中盤で破綻するような打ち方は選ばなくなる。 結果として、つまらない碁ばかりになるだろう。 いつも老後がどうとか貯蓄はどうとか言ってる人間はつまらないのに似ている。

ではもし、投了があれば、 つまり安楽死があればどうか。 人間はもっと人生をアクティブに生きられる。 勝負することが出来る。 その結果、勝負に負けてしまうこともあるだろうけど、 チャレンジの結果大きく成功することもある。 もし負けてしまっても、 十分に勝負して納得した上でならば、 死ぬことに後悔はないはずだ。 あるいは、勝った人間が負けた人間を養うような世界も作れるはずだ。

投了が出来るならば人生はより楽しくなる

この話、どこかで聞いたことがあるだろう。 ベーシックインカムだ。

もしベーシックインカムがあり、 仮に勝負に負けたとしても 生きることだけは保証されるのであれば、 人は人生の中で大きく勝負することが出来る。 自分の可能性に賭けることが出来る。 自分の才能を探すきっかけにもなるだろう。

その結果、才能が花開く人だって現れるはずだ。

安楽死だって同じだ。 もし安楽死をすることで人生を投了することが出来るならば、 自分の可能性を探り、それで勝負することだって可能になる。 もし負けたら、死ぬだけでいい。

今は、死ぬことが難しいから、 人間は安全に、抑圧されて生きなければならなくなってしまっている一面がある。

もし、失敗しても楽に死ねるのであれば、 おれは結果として出生率も上がるだろうと思う。

早くベーシックインカムが実現するか、 あるいは安楽死が許されなければ、おれは 怖い思いをして死ななければいけなくなる。 それは嫌だ。 頼むから早くしてくれ。

高いところから飛び降りるのも、首を吊るのも、 電車に飛び込むのも、 怖いよ。

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